小津安二郎 生誕110周年 現存する作品の数々を配信中

小津安二郎生誕110周年記念 現存する映画作品を配信

  • 【1934年】浮草物語

    【1934年】浮草物語

    米作品『煩悩』(1928年)を下敷きにした下町人情“喜八もの”の第2作。

  • 【1935年】東京の宿

    【1935年】東京の宿

    原作者名が“without money”(文無し)をもじった小津のユーモアだとしても、時代を反映した暗い気分が全体に漂う。

  • 【1936年】一人息子

    【1936年】一人息子

    小津の「茂原式トーキー」による第1作で、国産トーキーが出現してから5年後のトーキー進出だ。

  • 【1937年】淑女は何を忘れたか

    【1937年】淑女は何を忘れたか

    男女の他愛のない誤解やだまし合いや仲直りを軽妙な語り口で描く、ソフィスティケイテッド・コメディの秀作。

  • 【1941年】戸田家の兄妹

    【1941年】戸田家の兄妹

    兄や妹の親不孝ぶりを批判する次男の言葉は、その決然とした態度によって強いカタルシスを感じさせる。

  • 【1942年】父ありき

    【1942年】父ありき

    父子で釣りをする反復シーンは、親子の絆を深く印象付けるものとなっている。

  • 【1947年】長屋紳士録

    【1947年】長屋紳士録

    小津の戦後第1作で、大船の名優たちが再び結集し、新しい小津世界を築き上げるきっかけとなった。

  • 【1948年】風の中の牝鷄

    【1948年】風の中の牝鷄

    “完全な夫婦はいない”小津安二郎が訴える新しい夫婦愛。

  • 【1949年】晩春

    【1949年】晩春

    やもめの父を気遣って結婚をためらう娘とそれを見守る善意の人々の物語。

  • 【1950年】宗方姉妹

    【1950年】宗方姉妹

    因習に縛られて生きる姉と、そんな姉に反発する妹の対照的な人生を通して、日本人の価値観の変化を浮き彫りにする人間ドラマ。

  • 【1951年】麦秋

    【1951年】麦秋

    婚期を逸しかけている紀子の所に持ち込まれた条件の良い縁談。しかし紀子の選んだのは...。

  • 【1952年】お茶漬の味

    【1952年】お茶漬の味

    戦時中に映画化出来なかった出征前夜の物語を、海外出張という設定に変えて実現。

  • 【1953年】東京物語

    【1953年】東京物語

    英Sight&Sound誌での世界の映画監督が選ぶ「史上最高の映画ベスト100」で見事、第1位に輝く。

  • 【1956年】早春

    【1956年】早春

    サラリーマンの孤独と夫婦の倦怠感をシリアスに描いた異色作。

  • 【1957年】東京暮色

    【1957年】東京暮色

    人生に暗い影を抱いて生きる人々を冷たい詩情のなかに描く。

  • 【1958年】彼岸花

    【1958年】彼岸花

    初のカラー作品で、監督が好んだドイツのアグファカラーの落ち着いた発色は、以後“小津の色”として定着する。

  • 【1959年】お早よう

    【1959年】お早よう

    小津監督の喜劇作家としての手腕が冴える傑作下町の庶民たちを主人公にした軽妙なコメディ。

  • 【1959年】浮草

    【1959年】浮草

    愛情は流れゆくもの、恋ははかなきもの......全女性の感動を呼ぶ文芸巨編。

  • 【1960年】秋日和

    【1960年】秋日和

    『晩春』の父娘関係を母娘に置き換えてカラー化した作品とも言える。

  • 【1961年】小早川家の秋

    【1961年】小早川家の秋

    妻に先立たれた造り酒屋の小早川万兵衛を中心に、小早川家の悲喜こもごもを独特の情感で描写した作品。

小津安二郎とは

 1903年12月12日、東京深川(江東区)に生まれる。小学生の時に父の故郷・三重県松阪市に移る。この時期に見たハリウッド映画「シヴィリゼーション」(監督:トーマス・H・インス)の影響で、映画の道を志す。三重県伊勢市の宇治山田中学校卒業後、飯高町の尋常小学校で1年間代用教員を務めた後、帰京。
 1923年撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社。1926年演出部に移り、翌1927年時代劇「懺悔の刃」で監督デビューを果たす。1932年に監督した「生まれてはみたけれど」はキネマ旬報ベストテンで第1位に選出されるなど、高い評価を得た。1936年自身初のトーキー作品「一人息子」は最後の蒲田撮影所作品ともなった。
 1943年に軍報道部映画班として南方へ従軍、この地で数多くのハリウッド映画を見る。終戦をシンガポールで迎え捕虜生活の後、翌年帰国。1947年戦後第1作「長屋紳士録」で復帰。戦後は脚本家・野田高梧と組み、神奈川県茅ヶ崎市の旅館・茅ヶ崎館で脚本を執筆し、「晩春」、「麦秋」、「東京物語」といった名作を次々に発表。中流家庭を舞台に親子の関係や人生の機微を描き、独自のローアングルの手法を磨き上げ、いわゆる“小津調”を確立し日本映画界を代表する巨匠となる。「東京暮色」以降は蓼科高原(長野県茅野市)にて脚本を執筆し、晩年の名作を生み出す。
 1958年「東京物語」がロンドン国際映画祭でサザーランド賞を受賞したのを機に、海外でも注目を浴びるようになる。同年には紫綬褒章、翌1959年には芸術院賞を受賞し、映画人として初の芸術院会員となる。世界レベルで評価が高まる中、癌に冒され、1963年12月12日、60歳の誕生日に逝去。晩年を過ごした北鎌倉の円覚寺の墓に眠る。
 死後もその評価は高まる一方で、大船撮影所の監督は勿論、周防正行、市川準、竹中直人ら日本の監督たちにとどまらず、トリビュート・フィルム「東京画」を撮ったヴィム・ヴェンダース、ジム・ジャームッシュ、アキ・カウリスマキ、ホウ・シャオシェンをはじめとし世界の監督たちにも大きな影響を与え続けている。2012年、英国映画協会発行の「サイト・アンド・サウンド」誌が発表した世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画で、「東京物語」が1位に、批評家846人の投票では3位に選ばれた。

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